最近、笑わせようと思って発言したり、自分の意見を素直に主張して叩かれる…ということが多いですね。
これはテレビやネットだけでなく、会社や仲間内など小さいコミュニティでも起こっていることだと思います。
・冗談で言ったつもりが相手を本気で怒らせてしまった
・場を盛り上げようとして取った行動で多くの人を不快にさせてしまった
こういったことは日常的に起こります。
相手への配慮を欠いてしまったことが原因。
常に、人はそれぞれ境遇や考え方が違うことを我々は忘れてはいけないのです。
ふと、そういった失言に欠けているのは「教養」なのではないかと思いました。
教養とは何か考えてみた
「教養とは何か」
教養と知識は違うと思っています。
最近は、教養が身に付く本が売っていますが、あれは知識はつきますが、読んだだけでは教養までは身に付かないかなと。
私が考える「教養」とは、思いやりと礼儀だと思います。
これは、自分の言動で傷つく人がいないかどうかを瞬時に察知(というか考えずに)できる力。
これを身に付けるには、世の中にはどういう人たちがいて、どういう考え方や思想があって、どういう時代背景があったのかを知っておく必要があります。
この「知っておくべき知識」を切り取って、それさえ知っておけば教養がある人になれる…と考える人もいるようですが、それだけで充分なわけではない。
確かに、広い視点や知識を持つことは大切です。
ただ、それをどうやって活かすか…ということの方が大切。
教養がある人は、不用意な発言はしません。
それは、言っていいことと言ってはいけないことの線引きが身に付いているから。
自分が言葉を発する際に、無意識レベルで「この発言で傷つく人はいないか」を瞬時に察知できる。
これが教養があるということではないかなと思います。
色んな境遇の人がいるということ
他人を不快にしてしまう言動を慎むためには、「色んな境遇の人がいる」ということを常に理解し、それに配慮できなければいけません。
例えば、未だに世界中に差別がありますよね。
ただ、「差別があった」ということを知っているのは知識でしかありません。
教養はもっと踏みこむもの。
そもそも差別とは、自分の境遇では変えられないことで不当な扱いを受けたということです。
人種差別や性差別、嗜好や身体的特徴で揶揄される…など。
ここで必要な視点は、
・差別する側の気持ち
・差別される側の気持ち
この両方を考えることが必要です。
差別する側としては、生まれたときから教育で「あの人たちは奴隷だ」と教え込まれたら、それを子どもが信じ込むのは当たり前。
しかし、ここで「なぜ?」と考えられる大人が限りなく少なかったのも事実です。これは教育で常識として叩き込まれたことは、教養を上回るのだなと。
逆に、差別される側の視点も考えてみる。
自分が日本人という理由だけで不当な扱いを受けるのです。たまったもんじゃありません。
アメリカでは、身長や容姿についっては絶対に口にしちゃいけないけど、太っていることにはシビアだ…という話がありますね。
これは、「自分で変えられないことを批判=差別」だからです。
ここまで考えて、「差別はしょうがないよね」と思って差別発言をする人は果たしているのでしょうか?
色んな人がいる
差別とは行かないまでも、日常でもコンプレックスや身体的特徴をあげつらって笑いを取ろうとしたり、共感されようとしたりすることはあるでしょう。
過激な発言を好む人は多いし、ブラックユーモアは笑いの一つだとは思います。
しかし、そこに傷つく人がいる可能性があることを忘れちゃいけないのです。
教養は思いやりです。
「相手の視点に立って考える」
これを最優先にすれば、人を傷つけてしまうことは限りなく少なくなるはずです。